DEATH「死とは何か」シェリー・ケーガン
後半第7~8項
ここまでで、おおよそ人生をどう送るべきかについて語られています。
自殺について最後の章で語られているが、ここでは筋が違うと判断したので書かないことにしました。
前半で、死が悪い=「自分が満足したと思える時間を生きてから死ぬ」ことができるには人生は短すぎる。という結論を出しました。
後半では、では、それならばこれからどう生きていくのが正解なのか、について語られています。
まず、死ぬという事実に対して、3つの生き方があると考えられます。①常に死ぬということを意識しながら生きる、②一切無視して恐れを抱かずに生きる、という両極端の考え方があり、著者は③その中間、適切な時に考え、適切な時に考えない、という立場をとっています。
③は若干逃げている気がしますが、実際はその通りでしょう。こんな本を読んでいるときは死について考えるべきだし、エッチなことを考えているときはそんなことは考えないでしょうから。
そして、死についてどのように恐れるべきなのか、というところに焦点を移します。死ぬということは「未来にあったであろう幸せなこと」を失うから悪いのであり、それに対して恐れるべきだということです。
そうはいっても死んでしまうので、じゃあどう生きるかうぃ考えました。
「死を適切に意識して今のうちにできるだけ幸せをつかんでおこう」
となりますよね。当然
300ページも読んできましたが、結論としてはそんなもんです。では、どのようなものが最も幸せでいい人生なのか、ここについては大雑把なことしか書かれていませんが、仕方ないでしょう。みんなそれぞれですから、こう生きたら幸せだ、なんと話すのは間違っています。
その代わりとでもいえばいいでしょうか。幸せを表現する形を2個提示しています。
それは、「質」と「量」です。この2つのベストミックスさせるように動け、ということです。
最後に宗教観から死についてみて、生きるための議論が終わります。
そもそも、生きていること=幸せなことなのか ということです。西洋的な考え方ではそうらしいです。それに対して東洋は(要はキリスト教か仏教かみたいな話です)、生きていること=つらいことだ という立場からスタートしています。
生きていることがつらいなら、死は悪いことじゃないじゃん。という見解です。違っていないでしょう。
僕もそうは思いますが、じゃあすぐ死ねばいいじゃん、という気分にもなるので、それが絶対正解かといわれると違う気がします。
それは違うのだから、生きていることは幸せなんだと思います。
大体これで本の内容は終了です。最後に僕の考えを紹介して終わりたいと思います。
僕が考える最善の生き方は、例えば90歳で私の体は一切動かなくなり、死ぬまで動けないとしましょう。ただし、脳は活発に動いているとします。
そこで後悔するであろうことに優先順位をつけて、高いほうから実践していく、というのがいいのかなと思っています。
僕の場合は、
- 仲間と努力して何かを成し遂げる経験をすること
- 家族を持ち、大切にすること
- 他人に愛をもって接すること
この3つが考えた結果です。たぶん死ぬ前に、あんなこともしておけばよかった、ということがたくさん出てくると思うんです。その時に、でもこれだけはできたからまあ満足だった、と思えることを①で成し遂げたい、満足だったなあと思えるのは、仲間がいたからに尽きると思います。やりたいことはいくらでもあるんだから。
②は、誰かを育てたい、という思いと、育ててくれた親に穏やかに死を迎えてほしいからですね。それが僕にできる親に対する愛で、また、自分も死ぬ前にそうやって見送ってほしいからです。
つづいて③は、キリスト教の考え方を大事にしているからです(仏教徒ですが…)。キリスト教があんなにも広まったのは、神の奇跡ではなく、愛をもって他人に接するという行為が人間が生きる上で必要不可欠だったからだと思います。それをわかりやすくしたのが、キリスト教だと考えています。そしてそれは、僕の27年間の人生においては心地よいことだったから。理由はなく心地よい。いいですよねこういう理由がない感じ。
この3つを実現するうえで何をして、何をしないかを明らかにし続けていくことが人生かなと思います。
あー。仕事辞めるか
終わり。